会 社 の ご 紹 介

創業は1965年です。日本の産業を支える石炭の町:大牟田市三池地方は石炭の三井三池炭鉱のもと大変な賑わいでした。三池炭鉱の設備建物の新設更新などに必要な、設計と施工が山ほど発生しており、当社はその図面の複写を担う「青写真会社」として誕生しました。

 

屑鉄拾いから身を起こした祖父の援助のもと、父はアンモニアの臭いに囲まれて毎年何万枚もの図面を複写しては製本しての日々で、残業残業の連続、小学生の私も手伝いをさせられていました。

(青写真は、紙の薬剤をアンモニア蒸気で、線図を発色させます。)

 

やがて、今のコピー(青焼きに対して白焼きと呼んでいました)が発明され、我々専門業者に白焼機械が設置されるようになりました。

 

1990年頃にはパソコンとキャドが普及しだすと、当社も大型インクジェットプリンターや、ラミネート機械とともに、徐々に導入してきました。

 

その間、親類に三井企業社員がいた我が家の稼業は、その親類の紹介もあって、順調に経営を続けてきました。

 

私が、福岡大学建築学科を卒業して、1994年ごろにサラリーマンを退職して、後継ぎで帰ってからは、ポスター印刷・看板製作・印刷関連にも受注を広げ、増収増益の連続でした。

 

キャドソフトやアドビソフトも購入、そのオペレーションを自分自身でやり、またオペレーターを雇用もしました。当時「出力センター」などと呼ばれた新業態のスタート、建築士の資格があり、施工現場経験も有ったので、幅広い注文に、初期相談から施工まで、一人で関わることを楽しんでいました。

 

地域を担う総合情報媒体会社を目指し、広告代理店的な受注も受けるようになりましたが、急激な業容の拡大に体制を作ることが出来ず、あまりの忙しさに自分自身が疲れてしまいました。

 

売上の急激な増加は、外注費の増加につながり、結果は収益の悪化が起こりました。さらにリーマンショックが訪れて、業容を縮小せざるを得ない状況になりました。

 

その後は、リーマンショックの影響から、市外業者や印刷業者との競合も始まり、忍耐の時代に入りました。

 

いよいよ売り上げが落ち込み、事業内容の多角化と転換に乗り出し始めたのが2015年ごろでした。リーマンショックのあとは、少数精鋭の体制を継続してきたため、無理をすることなく、継続して営業をすることができました。

 

すると、今度は皮肉とでも言いますか、競合する他業者が経営悪化に対処できずに廃業・倒産していきました。

 

弊社が生き残れる最大の要因は、もともとの成り立ちが、弊社のような青写真・製本業の会社は、印刷や看板業者と大きく違う強みを持っています。

それは、単調な制作を行わない、言い換えれば、一品一品に、何らかの相違工夫で作ることを要求されることが多いという点です。

また、私自身が、知らない材料・知らない作業方法・知らない工具などの

いろんな知らないことを調べてでも、客の要望を実現したいという欲を持っていることが、会社の持久力となり、結果として、倒産・廃業会社の仕事が当社に回ってきて、忙しくなって来ました。

 

今度は新型コロナです。コロナ後の世界へ 前進できるのか?

これも また 楽しみです。

 

私は、根がモノづくり好きで、人に仕事をしてもらうような経営者的役目は性に合ってませんでした。ひとに作ってもらうより、自分が考えて作ったほうが、はるかに優れた製品ができるので、結果として、今でも、営業、設計、施工、まで、できる限り自分でやっています。

 

 外注先や材料業者から、業種を問わず相談できる人との関係を大切にして、どんな仕事にも対応できるようにして、そんないろんな人達と、いろんな仕事との出会いを楽しんでいます。

世界遺産 宮原炭鉱 (手前は炭鉱鉄道敷跡)

全盛期の商店街 人口22万人 


 

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